在り方の問題、または指先の恋

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バスケット部は予選シーズン、陵南ももちろん夏のインターハイを目指して戦うのであるが、前年に予選ベスト4に入っていたため、トーナメントはシードである。つまり、1回戦目から勝ち上がってくる高校に比べて試合数がとても少ない。その上予選は始まっていても中々試合の日にならない。

この年の主将はとてもフットワークの軽い人で、注目すべき高校の試合などは公欠を取って観戦しに赴いたりしていたが、2年生ながら完全にチームの中心であるはずの仙道は出かけたためしがない。そういう敵情視察で主力選手の帰還が遅れ、練習の開始が遅れれば、また寝ている。

はまたもや自分の席で仙道がスヤスヤ寝ているので、遠慮せずため息をつく。

「先輩、またですか」
「ほえ」
「ほえって何ですか何で1年生の教室と2年生の教室の区別がつかないんですか」

またこの1学期におけるの席は窓際の柱の横という完全なる安眠スポットなので、確かスポーツ誌の記者に絶賛されているというレベルの選手である仙道だが、ぐっすり眠り込んでいる。今日は頭だけ机の上に乗せて、腕もだらりとぶら下げたまま。これじゃ首と肩を痛めるぞとは呆れた。

……オレ去年もDだったんだよね」
……3月までこの教室使ってたから慣れで入ってきちゃうんですか」
「たぶんね」
「もうそろそろ5月終わりますけど大丈夫ですか」

そんなことも覚えられないのかというニュアンスを込めて言うに、体を起こした仙道は目をこすりながらゆったりと笑っている。バスケットをしている時はものすごくかっこいいんだという話を聞いたことがあるが、どうにもは信用していなかった。

ちゃんはどうしたの。またテストの点数悪かったの」
……私テストの点数悪かったなんて言ったことないですよね」
「それはほら、越野が」
……今日は忘れ物して取りに戻っただけです」

は心の中で越野を罵倒しつつ、これは面倒くさい客相手の接客の練習だと自分に言い聞かせる。

「あ~白波のご飯食べたい」
「だからヒロに頼んだらいいじゃないですか」
「タダ飯欲しがるのも悪いじゃん。かと言ってオレ仕送りは微々たるものだし」
「和膳なら1200円くらいで食べられますよ」
「そうじゃなくて、あれがいい、クロダイの雑炊」
「それ先輩が釣ったやつですよね」

白波の板さんたちは仙道が可愛いので、1年前の今頃はよく堤防釣りに彼を連れ出していた。ある時仙道はあれこれと指南をしてもらってクロダイを釣り上げた。普段は白波を敬遠している越野も大喜び、ふたりはさっそく白波に帰ってクロダイのフルコースを作ってもらったのだ。その締めが雑炊だった。

「捌き方教えてもらってたじゃないですか。釣れたらそれで作ればいいのに」
「それがさ、ご飯が違うんだよ。白波のご飯でないとあの味は出ないの」
「そりゃまあ、かまどで炊いてますからね」
「だろー。それに出汁もおいしいし」
「割烹なんでそれが不味かったら話になりませんからね」

仙道は起こしていた体をばったりと机に落とすと、顔だけの方へ向けて口を尖らせた。

……ちゃんはほんとにオレには冷たい」
「別に先輩だけ特別に冷たくあしらってるわけじゃありません」
「そんな風に人を差別してたら接客なんか上手にならないぞ」
「とりあえず先輩はお客様ではありませんので」
「冷たい~寒い~雑炊食べないと凍死する~」

めんどくさい。

は仙道の相手をしているのに疲れてきた。万が一越野に見つかっても、またはこの会話の内容を仙道が話したとしても、あとで一切付け入る隙を作らないように返さなければならないのは骨が折れる。普段の笑顔で接客と同様に接する方がどれだけ楽かわからない。

「板さんでなくてもいいや。ちゃん雑炊作ってよ」
「私料理の勉強はしてないです。魚も捌けないし」
「捌くのはオレがやるから、その先をお願い」
「そしたら結局先輩が自分で作るのと同じにしかなりませんよ」
……あの白波のあったかい雰囲気の中でご飯食べたいんです」

やめろ。そういうしょんぼりした顔をするんじゃない。確かに途中から仙道は客というよりただの「子供の友達」になってしまい、フロアのカウンターやテーブルでご飯をもらっていたところ、終いには従業員たちが賄いを食べる部屋に通されるようになり、大人数でガヤガヤしている中で食べるようになっていた。

毎日朝から晩まで練習とは言え、高校生からいきなりひとり暮らしでは寂しかろう……と思うが、同情したくても出来ない。きっと白波の板さんたちなら週に1日とか2日くらいご飯をたかりに来たとしても仙道くんならいいよ、と言いそうだが、越野がうんと言わないのだ。

「あの頃はまだちゃん天使対応だったしさ~先輩ご飯粒ついてますよとか言ってさ~」
「だからそれは私に言わないでヒロに言ってくださいって言ってるでしょう」

ちょっと忘れ物を取りに戻っただけだと言うのにまたこんなダラダラとお喋りを。少し焦ってきたは机に手をかけてガタガタと揺すり、仙道をどかすと机の中の忘れ物を引っ張り出してバッグに押し込む。最近では母親と相談の上22時上がりを21時上がりに短縮し、夜に必ず1時間以上は勉強をしている。

特にこのところ外国からの観光客が増加の傾向にあり、英語は疎かにしない方がいいなと思い直したせいもあって、放課後と休みの間は白波に入り浸っているだけだったのが、少し白波を離れる時間も作るようになっていた。だからと言ってあとで越野に叱られるかもしれないこんな時間、無駄なだけだ。

だが、仙道を置いて帰ろうとしたの制服の袖がつんと引っ張られる。

「ごめんごめん、怒った?」
「別に怒ってはないですよ。ただヒロがめんどくさいんです。ヒロも私がめんどくさいんですよ」

そうでなければ天使対応したって構わないのだ。白波で育ったにとって、血縁があろうがなかろうがみんなで家族のようにして一生懸命働いているという連帯感の方が自然という感覚がある。こんな風にツンケンする方がつらい。本当はいつでもご飯食べに来て下さいね! って言いたい。

「越野は今日予選見に行ってるからまだ戻らないよ」
「あ、そうなんですか。てかだからまたこんなとこで寝てたんですね」

まったく、越野いわく県下にその名を轟かす天才だと言うのに……と呆れただが、仙道が袖をつまんだまま離してくれない。お前は親が共働きで寂しい鍵っ子か!

「暇なら部室に行けばいいじゃないですか~」
ちゃんと喋ってる方が楽しいもん」
「塩対応しかしませんけど?」
「それはそれでまあいいかなっていう気になってきた」
「えええ」

暇なら自主練でもしてたらいいんじゃないの……という言葉をは飲み込む。きっと天才なので練習なんて適当でもいいんじゃないだろうか。バスケットのことなど何もわからない素人であるはそう考え、しかし袖を離してもらえないのでため息をつく。

……ヒロに言ってくださいよ。板さんたちはいつでも歓迎してくれますから」
「なんて言えばいいんだろう」
「それはちょっと……私、ヒロの地雷踏むの得意なので」
「あはは、だよね~!」

指を差して笑われたので、は腕を振り払う。てかマジでそんなこと自分で考えろ!

「先輩の方が親しいんだから、ヒロの地雷を踏まないように言えばいいんじゃないですか。私は別に先輩が来たってヒロが来たって困ることはないです。じゃあお疲れ様でした!」

またペコリと頭を下げたは返事も待たずにくるりと振り返って教室を飛び出た。

翌月末の月曜、いつものように裏口から白波に入ってきたは越野父の顔を見るなりヒッと短い悲鳴を上げて壁にへばりついた。彼の顔の右側が赤黒く腫れていたからだ。

「おじさんどうしたの、大丈夫!?」
「いやー悪いなビビらせて。大丈夫だよ、ちょっと視界が狭くなってるだけ」

彼は苦笑いで板場に入っていったが、まだは壁にへばりついていた。そのの肩をちょんちょん、と白波勤続30年のパートの女性が突っついた。

「またヒロちゃんに余計なこと言っちゃったらしいのよ」
「え、まさかあの痣って」
「殴り合いの喧嘩になっちゃったんだって。ヒロちゃんも大変なときなんだから触らなきゃいいのにね」
「大変? ヒロどうかしたの」
「やだ学校で何も聞いてないの? ヒロちゃん今年もインターハイ行かれなかったんだって」

現在同じクラスにバスケット部員はいないし、きっと勝ってインターハイへの出場が決まったら大変な騒ぎになるのだろうが、そうでないなら……というところだろう。は頷きながら、デリカシーのない父親と大げんかする羽目になった越野よりも、仙道を思い出していた。

「天才」なのに、負けるんだ……

ヒロは元々カッとなりやすいし、おじさんもまたヒロがカッとなるようなことをわざわざ言っちゃったんだろう。それは恐らくおじさんが悪いだけだと思う。けどヒロってのはカッとなりやすいけどいつまでもグズグズ言ってるのは大嫌いな人だから、きっとそのうち自分で立ち上がって元に戻ってると思う。

あの人は、大丈夫だろうか。繊細でひとり暮らしに参ってるようには見えなかったけれど、だけど白波のあったかい雰囲気の中でご飯食べたいって、そういうこと平気で後輩の私に言ってくるような人だよ。落ち込まないわけ、ないよね。天才天才って言われて騒がれて、だけどIH逃したなんて、つらいだろうな。

越野さえ文句を言わなければ、暖かいご飯食べて少し体を休めて気持ちを切り替えてくださいね、くらいのことは言えただろうと思う。だけど殴り合いの喧嘩したばかりの越野がいる状態では何も出来ない。

7月に入り、期末を経てテスト休みに突入したはしかし、補習で毎日学校へ来ていた。中間よりは確実に全教科の点数が上がったのだが、それでも全体的に低いことは変わらず、それを「向上心が見られない」としてまた呼び出しを食らう始末。

その上テスト前には初めての三者面談があり、白波での修行と高校生活を両立させたいと言うに対して担任は「出来てないものを両立と言ってもね」とずけずけと言い放った。白波で働くことが夢なら、というかもう修行始めてるなら、高校なんか来なくてもいいんじゃないの、と言いたげだった。

幸い白波は場所が近いこともあって、陵南PTAの定例会の会場であったし、校長も私的な接待にはよく利用していたし、それが転じて担任の方に雷が落ちた。赤点でなければ一応問題はないのだし、病欠でなければ休まないし、辞めた方がいいんじゃないのって何バカなこと言ってんだ。

そんなわけで、にも学習意欲がないわけではないので、教科担当にも勧められて補習に来ていた。朝から午前中に3教科しかないので、昼を待たずに帰り、少し休んでまた白波に行く。これならじっくり教えてもらえるし、白波に行くまでの間に復習も出来るし、むしろ普段より理解が進む。

こういう風に教えてもらったらテストの結果だって違ってたんじゃないだろうか――そんなことを考えながらは1年生の補習に使われている理科室を出た。しかしこのまま夏休みに入って勉強から離れると忘れるな、という予感はひしひしと感じるし、ちゃんと勉強する時間を作ろう、と意気揚々と教室のドアを開けた。

「また寝てる!!!」

もはやの席と知って遠慮なく寝ているとしか思えない仙道の丸い背中につい突っ込んでしまった。もう1学期も終わる。この間まで使ってた教室だとか、学年は違ってもクラスが同じだとか、きっともうそんなことはどうでもいいんだろう。遠慮なく使える安眠スポット、それがの席だ。

教室の入口でハーッとため息を付いたはまずロッカーに行って荷物を片付け、それから自分の席までつかつかと歩いていくと、手にしていたクリアファイルを丸め、ポコッと仙道の後頭部を叩いた。

「あー……
「いい加減にしてください。ヒロに言いますよ」
「あれ、なんでいるの」
「補習です」
「テスト、悪かったのか~」
「悪くないです。自主的に参加してるだけです」

またぐっすり眠り込んでいた仙道はのろのろと体を起こして大あくびをしている。

「先輩、確かキャプテンになったんじゃなかったんですか」
「よく知ってるね」
……ヒロから聞いた板さんたちが喜んでたから」
……そっかあ」
「なのにこんなとこで寝てたらだめじゃないですか」
……練習は行くよ」

視線を逸すと仙道は窓の外を見ながら少し目を細めた。途端には彼がインターハイを逃したことを思い出した。もし予選を勝ち抜いていたら、今頃こんなところでスヤスヤ居眠りしている暇などないくらい練習に夢中になっていたはずだ。

……残念でしたね、予選」
「今日はいいの、そんなこと言って。越野に怒られるかもよ」
「言わない方がいいならやめますけど」

彼は返事をしなかった。ただ窓の外を見つめたまま、音もなく手を伸ばすと、またの制服を指で掴んだ。もう夏服なので、ニットベストの裾だったけれど。緩く引っかかる指にニットベストがにゅっと伸びている。

「悔しい、ですか?」
「そりゃ悔しいよ」
「ヒロはおじさんと殴り合いの喧嘩したそうです」
「聞いた聞いた。おじさん、『IH行かれなくたって死にゃしない』って言っちゃったんだって」
「そんなことだろうと思いました」

越野の父も本人なりに息子を励まそうとしたのだろうが、言葉のセレクトは最悪だし、それにカッとなって言い返してきた息子に対してカッとなり返したあたりはさすがに親子だ。結果ふたりは殴り合いの喧嘩に発展したが、県内トップクラスのチームの選手である息子は父のパンチをすべてスルー、父親の方は腹と顔に一発ずつ入れられてダウンした――という話を仙道は楽しそうに話している。

「先輩は大丈夫だったんですか」
「うん、そういう風に暴れる気にはならなかった」
「じゃあ落ち込んだんですか」
「うーん、どうかなあ。落ち込むっていうより、直後は気が抜けちゃってね」
「それいつものことじゃないですか」

ぼそりと突っ込んだに、仙道は声もなく笑う。

「慰めてくれてるのかそうでないのか」
……私運動部経験はないので、慰めようにも、負けた時の気持ちとか、わからないので」
「女の子じゃないから、理解と共感は求めてないよ」
「じゃあ何が欲しいんですか」
「それは内緒」

飄々とした声には少し苛ついた。だけどそれって「察しろ」ってことじゃないの。めんどくさい。

「それじゃあわかりません」
……じゃあ、ひとつ頼もうかな」
「はあ」
「手を、繋いでくれる?」

きょとんとしたの腹のあたりに、仙道の大きな右手が開かれている。どういうことだろうと思いつつ、はその手に自分の右手を乗せると、きゅっと握り締めてみた。だが、顔を戻した仙道は思いっきり苦笑いだ。

ちゃんちゃん、それ、握手」
……あっ、そうか」

が右手を離すと、仙道はサッとの左手を取ってするりと繋いだ。 指が絡まる。ああそうか、繋ぐってこういうことか、とはぼんやり考えていた。しかしでっかい手だな。お父さんと子供みたい。それに、さっきまで寝てたからかな、すごく暖かい。夏だけど私の手はちょっと冷たいから、温度の高さがよく分かる。

「こんなんでいいんですか」
「気が抜けちゃったからさ、ちょっと寄りかからせてもらいたいなって思って」
「寄り……手ですけど」
「だって本当に寄りかかったらダメでしょ?」

誰もいないテスト休みの昼間、真夏の熱い風が吹き抜けてはカーテンを揺らす。白波では事務方にいる越野母によれば、インターハイに行かれなかったとはいえ、いやだからこそしっかり練習を積んでいかねば、とバスケット部は盛り上がっているそうだ。越野は今頃体育館で走り回っているんだろう。

それを抜けてきたのか、元から出ていなかったのか、こんな1年生の教室でキャプテンがぐうすか寝ているとは……普通は思わないだろう。時間が出来るとすぐに釣りに行ってしまうという話だから、探しに行くなら海へ出るはずだ。間違っても1年生の教室なんか……

……いいですけど」

そうぼそりと呟いたは繋いだ手をぐいっと引かれ、直後に仙道に寄りかかられていた。何しろ身長が高いので、椅子に座ったまま寄りかかっても頭はの肩ほどの高さにある。いいと言ってしまったけれど、ちょっと重い。は片足を後ろに引いて少し踏ん張る。

それを察したか、繋いでいた手が離れ、仙道の腕がの背中に回る。

……こんなんで、いいんですか」
「うん。少し、楽になった」
「楽じゃ、なかったんですか」
「寄りかかれる場所なんか、なかったからね。オレだって疲れることくらい、あるよ」

顔を落とすと、また丸くなっている背中が目に入った。夏服の白いシャツがやけに眩しく見えて、その白が気が抜けてしまったという仙道の言葉に重なり、は思わず手を伸ばしてそっと撫でた。

「これで白波のご飯食べられたら、もっと元気出るんだけどな」
「ヒロに、言ってください。あ、だけどこのことは――
「言わないよ。言うわけないじゃん」

慌てて付け加えようとしたの言葉を遮り、仙道は背中に回した腕に少し力を入れた。

……ありがとうちゃん、もう、大丈夫」