マネージャー用のロッカールームの方でがたがたと音がした。がシャワーから戻ってきたのだろう。神はその音に居住まいを正すと、声を潜めた。
「……調子に乗って失礼しました。オレ、本当におふたりのことは尊敬してるんです」
「余計な気遣いをさせたみたいだな。すまん」
「いいえ。牧さんの代わりをしようなんて思ったオレがバカだったんです」
「代わり?」
もうがロッカーから戻ってきてしまうだろうが、牧はつい聞いてしまった。案の定ガラガラとドアを開ける音がする。きょろきょろしている牧に、神がまた囁く。
「必ず家まで送ってます。他の高校のナンパも追い払ってます。牧さんの代わりになれればと思って」
柔らかく微笑む神に、牧はちくりと胸が痛んだ。そこへが割って入ってきた。
「ただいまー。あれ、お昼食べてなかったの」
「先輩を待ってたんですよ。さっぱりしました?」
「うーん、でもまだ匂ってる気がする」
「どれ……」
「うわっ、神くんちょっと!」
「匂いませんけど? ねえ牧さん」
立ち上がっての髪に顔を近付けた神は遠慮なく匂いを嗅ぎ、慌てるの肩を掴むと、デッキチェアに座ったままの牧に差し出した。よろけたは牧の顔の前に頭を突き出した。苦笑いの牧は少しだけ顔を寄せると、嗅いだ振りをしての肩をぽんぽんと叩く。
「うん、シャンプーの匂いしかしないよ」
「ふたりともやめてー!」
「じゃあ昼にしましょうか。オレ飲み物買ってきますよ、何がいいですか」
「いやいや、神くん私が行くから!」
「いやオレ自分で選びたいんで、先輩は大人しく待ってて下さい」
「神くんて絶対私のことコドモだと思ってるでしょ!」
「まあ否定はしませんよー」
そして神は意味ありげな笑顔を残して部室を出て行った。神の座っていた椅子に腰を下ろしたは、不満気に口をへの字に曲げている。マネージャーとしての仕事を奪われたように感じているのかもしれない。
「別に敬えなんて思ってないけど、神くんのああいうのはアレどうなのよ」
「……あいつなりにお前を支えようと思ってるんだよ」
牧は洗いざらしのの髪に手を伸ばした。はきょとんとした顔で固まっている。
「、ちょっと聞いてもいいか」
「ど、どうしたの、牧、なんか変だよ……」
「さんに薦められたのがきっかけなんだろうけど、お前のバスケ部での目標って何?」
おどおどしているに構わず牧は聞いた。はわけがわからないまま首を傾げて答えを探す。
「目標って、その、それはやっぱりインターハイ優勝だよ」
「さんの受け売りでなくて?」
もインターハイ優勝が夢なのだと常々言っていた。だが、は首を振る。
「ううん、違う。覚えてないかなあ、1年の時、入部してすぐに兄ちゃんがそれを話してて、牧が入ったから夢じゃない的なことをへらへらと言い出してさ、私がつい人に託すなとか言ったんだよね。そしたらその後で牧がさ、託してくれていいのにって言ってて。覚えてる?」
今度は全く記憶になかった牧が首を振る。そんな話をしたことすら覚えていない。
「じゃあ私も託しちゃおうかなって言ったら、『一番高いところに連れて行ってやる』って言ってくれたんだよ」
は人差し指をスッと立てて、恥ずかしそうに微笑んだ。
「だから、牧にそこまで連れて行ってもらうのが目標、です」
照れ隠しか、は行き場のない人差し指をちょいちょいと折っている。シャワーで温まったのか、それとも照れたからか、頬がいつかの雪の日のようにピンク色に染まっている。牧は静かに息を吐いて、ゆっくり吸い込むと、手を差し出した。
「わかった。そこまで一緒に行こう。絶対に連れて行くから」
「牧……」
はずいぶんためらってから手を重ねる。牧はその小さな手を優しく包み込み、恥ずかしそうに俯くを見つめながら、心に決めた。を誰も手の届かない高みへと連れて行く。それができるのは、自分しかいない。だから、もう何も迷うもんか。好きとか嫌いとか、そんな次元の問題じゃない。
をそこへ連れて行くためなら、何だってやってやる。
4月に入り、や牧は3年生に、神は2年生に進級した。そして予告どおりの弟も海南に入学してきた。これでまたバスケット部にはがふたり在籍することになった。
牧が顔を合わせてから1年が経過しているが、その間に弟はとんでもない美少年に育っていた。天使の方のとは違い、いたずらっぽい表情が魅力的で、さっそくクラスの女の子を骨抜きにしているらしい。また、負けん気が強くて皮肉屋な彼は、天使のに対して「悪魔」だとか「デビー」などと呼ばれるようになった。
だが、能力的には家の範囲を出ない。即戦力にはならないだろうが、きっとこれまた家の特性のままに3年間地道な努力を重ねて行くことだろう。何せ今年は異様に身体能力の高い新人が入ってしまったので、同学年の部員たちは相当な努力が必要とされる。
「でも兄ちゃんよりは役に立つと思います。よろしくお願いします!」
「こんな弟でごめんね……」
「いや、家の真価は1年やそこらじゃわからんからな。頑張れよ」
「はい!」
姉というコネを利用して3年の教室まで押しかけてきたデビーは、牧に元気よく挨拶をした。3年生になり、と牧は初めて同じクラスになったのである。バスケット部員はふたりだけだが、部長とマネージャーなので話が早いのが助かる。
デビーが帰っていくと、クラスの女子が一気に沸き立った。あの美少年何者よ、というわけだ。
それがの弟だと知れると、一転妙な空気が漂う。決して悪くない造りのだが、家特有の「華」を持たずに生まれてきてしまったらしく、身に纏う地味なオーラが災いして評価は決して高くない。本当にあの美少年と血が繋がってるの? という失礼な疑問が渦巻いていた。
「みんなそろそろ家の表と裏に気付いた方がいいんじゃねえのか……」
「ダメダメ、気付かれたら一族は土地を追われる」
「おいおい、どんだけあくどいんだよ家」
そんなことを言いながらも、牧はその天邪鬼一族の中でもだけは特別なのだと知っている。誰も彼も従兄のやデビーの華がある見た目に惑わされるけれど、だって曇りのない目で見ればとても可愛いのだ。それでもそんなことを知っているのは自分だけでいい。自分はわかっているのだから、言わせておけばいい。
が可愛いという件について考えると、毎回頭の端に諸星の顔が浮かんでくるが、毎回ハンマーで叩き潰している。昨年までは全国大会でもない限りが表に立つことはなかったけれど、今年は3年生であり現時点では唯一のマネージャーなので、予選から他校生の目に晒される。
それに不安を感じないでもないのだが、その時はその時。瑣末なことに気を取られて本懐を見失ってはいけない。
もう誰にも負けない、どこにも負けない。ただの1度たりとも負けない。
3年になり、また3学年体制になったことで、牧は名実共に海南の中心になった。彼を中心に全てが回る。牧自身もそれは痛いほど自覚している。中学の時、3年前にも同じ体験をしたからだ。当時はそういう状況を面倒に感じることも多かった。だが、その時とは違って、今はがいてくれる。
煩わしいことは全てが払い落とし、いつでも牧がまっすぐに歩いていけるように導いてくれている。天使の方のや神が言うように、確かに牧は中心であり核だが、それを小さな両手で支えているのはだ。
そのの見ている夢は自分が思い描いた夢と同じだけれど、自分の両手がそんなたくさんのものを抱え込めるわけではないことくらい、もうわかっている。神が言うように、自分はに報いていないのかもしれない。それを申し訳ないと思うこともある。
でも、もういいのだ。少しくらいを困らせても、苦しませても、それはふたりが目指す道が同じである以上は避けて通れないというだけのこと。そんな細かい棘を抜いて回っている時間があるなら、の手を引いて少しでも高いところに上っていきたい。
この年、牧を主将に置いたバスケット部はインターハイ決勝まで全勝無敗という記録を打ち立てた。
「よっ」
「……何でお前がここにいるんだよ」
「そんな怖い顔するなよ。推薦の件でちょっと東京まで行ったもんだから」
インターハイから帰ってきた牧は、しばしの休みをのんびり過ごしていた。バスケットとは別に波乗りが趣味である彼は今朝も海に行ってきた。その後、用があって電車で鎌倉まで出ようとしていた牧は海南の最寄り駅から乗り込んできた諸星に遭遇した。
「だからそれがなんでここにいるんだ」
「それはほら、海南行ってみようかなとか思ったんだけどさ」
「学校閉まってただろうが」
「仰る通りです。オレもお盆休みだから来てるのに」
「練習見たかったのか?」
100パーセント違うだろうと思ったが、一応聞いてみた。
「いや、ちゃんに会えるかもと」
正直でよろしい。
「そんなこったろうと思ったよ。アグレッシヴなやつだな」
「オレが異常みたいな言い方するなよ。お前がぼけーっとしてるだけだろ」
「オレがぼけーっとしてることには反論しないがお前は異常だ」
「ちきしょう、なんでこんなやつに〜」
諸星が4番を背負っていた愛和学院は準決勝で敗北、3位決定戦を勝利してインターハイを終えた。
「つかお前どこ行くの? ちゃんと遊んだりしないの?」
「……会う予定があったとしても、お前を連れてはいかん」
「だからほんとにずるいってお前はさ〜」
特に会話を弾ませたりはしなかったのだが、諸星はなんだかんだとずっと着いてくる。牧が鎌倉で下車しても、まるで普通の友達のように一緒に降りてきた。牧はICカード乗車券が相互利用できることをこっそり恨んだ。昔のように切符しかない時代だったらこんなに簡単に着いてこられなかっただろうに。
「なあなあ、腹減らねえ? つかあっちの方がなんか賑わってね?」
「あのなあ、オレは別に――」
お盆休みの鎌倉、大量に人が流れていくのは東口。鶴岡八幡宮と小町通り方面だ。だが、牧が用があるのは西口。構わず歩いていた牧のTシャツを引っ張る諸星に反論しようとしたら、腹が大きな音を立てた。牧は海から帰って大した食事もしないまま出てきてしまったことを後悔した。
「なんだよ腹減ってんじゃん。なんか食べようぜ。お前地元だろ、空いてて旨い店とか知らねえの」
「なんでお前と一緒に飯食わなきゃならねえんだよ」
「ひとりで食うよりいいだろ、なんだっけほらほらしらす! オレ生しらす丼食いたい!」
「しらすは春な」
用があるにはあるが、急ぎではなかった。牧は諦めて適当な喫茶店に入る。しらす丼も食べられないことはないだろうが、店を探してやる義理はない。昼が近いので店内はなかなか混雑しており、諸星は文句を言ったがそれも知ったこっちゃない。なんでお前の観光ガイドみたいなことをしなきゃならねえんだよ。
「お前んとこの3年スタメンまだ引退しないよな?」
「うちは選抜まで残る3年が多いからな。例え推薦がなくても内部進学があるから受験も少ないし」
「そーいうのずるいよな。みんな国体までが限界みたいな感じなのに」
「ずるいって、お前も選抜までだろうが」
「ていうか大学どこ行くんだ?」
あまり真剣に相手をしたくない牧だったが、諸星は喋る喋る。ランチをぱくぱくと食べながら次から次へと牧を質問攻めにしてきた。牧はあまりプライベートなことを喋りたくないのだが、聞いてもいないのに喋りまくる諸星はなんと牧が進学を予定している大学へ推薦入学が決まったのだという。げんなりした。
しかし、こんな諸星でも愛知のトッププレイヤーであり、今年のインターハイベスト4の4校で言えば確実に5指に入る選手だ。都道府県が違うだけで同じ状況の牧と行く末が被るのは仕方ないだろう。
「ちゃんは? やっぱ海南大行くのか?」
「だろうな。あの一族は何十年も前から全員海南だから」
「一族って」
「本当の話だ。今はふたりしかいないけど、多い時は10人以上いたらしいからな」
諸星はうんうんと頷きつつ、眉間にしわを寄せた。
「そっかそっか、遠距離ってほどでもないけど今より遠くなるんだな。オレは今より近くなるけど」
「何とでも言えよ。それにまだ高校は終わってない」
「そりゃそうだよ。だから高校生の間にちゃんと1回くらいプライベートで会いたかったんだけどな」
牧はため息と共に肘をついた。それだけのために海南まで行ってしまうそのバイタリティには感服するが、そんな余力があるならバスケットに注げよと言いたくなる。
「あんまりしつこくするなよ。は元々派手なたちじゃないんだ」
「まあなんだ、ちょっとくらいしつこければ、そのうち絆されないかなって」
「きったねえなおい」
「……邪魔しないのか?」
スプーンを口に突っ込んだまま上目遣いで牧を見上げた諸星は、言ってからにやりと笑った。
「……邪魔して欲しいのか?」
「まさか。でも、しないなら遠慮しない。勝負ってのは勝てないってわかってても挑むものだろ」
その気持ちはよくわかる。が、牧はもう余計なことに惑わされないと決めたのだ。自分が持てるだけの時間の中に、諸星のこんな与太話に付き合う「空き」はない。諸星がにちょっかいを出そうが出すまいが、関係ないのだ。それに、神の言うように牧はを信頼している。
もし、しつこさに負けてしまって絆されたのだとしても、が本気で諸星を好きならそれでいい。
「好きにすればいいだろ。オレは何も言わん」
「……え、マジで?」
「挑発するつもりなら相手を間違えてるぞ。オレはがどんな選択をしようと構わない」
諸星はきょとんとした顔をしている。おそらく神同様にと牧が公然の秘密状態で付き合っているとか、未だ形にならないながらも相思相愛なのだろうとか、そんな風に思い込んでいたに違いない。だが、これから猛アタックをするのであれば、覚えておくべきことがある。
「ただし、神はそのつもりないからな。あいつはのことになると鬼だ。心してかかれよ」
困惑の様相の諸星は「海南はどうなってんだ」と呟いた。牧もそれには同感だ。