白蝋館の殺人

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タクシーで走ること20分、急ぐために近道をすると言っていたドライバーさんだったが、既に窓の外は真っ白、かろうじて沿道に何があるかがわかるくらいで、正直牧とには信号すらもよく見えなくなっていた。

そしてさらに15分、なんだか上り坂を進んでいるみたいだなと思っていると、タクシーは突然止まってしまった。というか止まってみたら普通に山の中だ。

「ありゃりゃ、こりゃ近道使えないね。思ったより雪の勢いがあるな」

ドライバーさんはのんびりそんなことを言っているけれど、いやそんなの駅にいたときには分かってたことじゃないか、というツッコミをふたりは飲み込んだ。車の向きを変えて今来た道を戻るタクシーのメーターは上がるばかり。もしちゃんと到着できても監督の財布の中の現金がかなり減ることになりそうだ。ふたりの持ち合わせは心許ない。

「あっちゃ~! ここもダメか~!」
「あの……近道でなくてもいいんですけど……
「でもこれじゃ時間のかかるルートでも厳しいかもしれないからね」

やけに説教じみた口調の答えが帰ってきたので、牧とはそっとため息をついて背もたれに寄りかかった。最初は親切なドライバーさんかと思ってちょっと安心したけれど、とんだ災難に巻き込まれた。これじゃ到着できないんじゃないのか。

すると案の定ドライバーさんは車を止め、監督と話をさせてほしいと言う。携帯を預ける気になれなかったので、が番号を教えるとドライバーさんは外に出て何やら話し始めた。

その間、の携帯には高砂から実況報告が入り、ドライバーさんは雪の勢いが強すぎて先に進めなくなったと言っているらしい。雪の勢いじゃねえだろと牧が愚痴るが、後の祭りだ。自然の脅威の前にはもう成すすべがない。

頭の上に牡丹雪を乗せたドライバーさんが車内に戻ると、それまでの気さくな雰囲気から一転、冷たい声で「この先にあるホテルまでお連れします。そこで監督さんに連絡を取ってください」と言ったきり、黙ってしまった。

とはいえ牧もも高校競技の外に出ればただの未成年である。突然ツンとした態度になってしまったドライバーさんはなんだか怖いし、従うしかなかった。

そこからまたさらに15分ほど走ると、車は整然と並んだ針葉樹の前に急停車し、「お待たせしました。お代は結構ですので」と言ってドアを開けられてしまった。見ると薄っすら雪に覆われてはいるが、木製の看板が目に入った。ホテルの入口なのかもしれない。

雪に不慣れなふたりがモタモタと降車すると、タクシーはバタンとドアを閉めてすぐに走り去ってしまった。どんどん降ってくる牡丹雪、今にも消えそうなホテルへの石畳の道。はスカートに素足。

「どうなってるんですか監督!!!」
「とにかく今日はもう移動できないから、そのホテルに泊まってくれ」
「泊まってくれ、って私たちお金持ってないですよ!」
「大丈夫、そこはこっちで話つけたから。事情も話してあるし、とにかく避難してくれ」

監督の声にも怒りが滲んでいる。この様子では何かしらの取引をしてこのホテルへふたりを届けさせたようである。ふたりも不愉快だが致し方ない。このまま喋っていたら牡丹雪に埋もれるだけだ。

「しょうがない、今日は諦めよう」
「はあ……泣きそう」

牧は肩を落とすの手を取って繋いだ。どちらも冷え切ってうまく動かせない指をしっかりと絡める。そのホテルとやらは斜めに降る雪にかき消されてはっきりと見えず、そびえ立つ針葉樹だけが頼りだ。今はとにかく屋根のある場所にたどり着かねば。

そんなふたりの背中にも牡丹雪は容赦なく積もり、そしてこぼれ落ちていった。

「白蝋館」

やっとのことで玄関ポーチにたどり着いたふたりは、古めかしい字体の看板を前に肩で息をしていた。雪の勢いが増して歩くのですら骨が折れた。そして読み方がわからない。玄関ポーチに見えるが入り口がここでいいのかもわからない。

「なんて読むのこれ」
「はくろう? しろろう……ってことはないよな」
「ほんとにホテルなのかなあ。個人の豪邸みたいだけど」

しかしただボーっと突っ立っていても凍えるだけだ。牧は意を決してドアに手をかけ、引いてみた。すると中からフワッと温かい空気が漏れ、続いて明るい女性の声が聞こえた。

「あっ、いらっしゃいませ! 牧さんとさんですか? うわ、大変、大丈夫ですか」

見たところ2~30代くらいの若い女性だった。外は雪だがパンツスーツに袖まくりをしていて、背丈はと同じくらい。大丈夫なわけないだろ、と言うに言えない牧とだったが、視線はスタッフらしきその女性を通り過ぎてふたりの目を真ん丸に見開かせた。

ふたりの眼前には、まるでファンタジー映画にでも登場しそうな重厚な「洋館」の玄関ホールが広がっていた。白と黒の市松模様の床、黒ずんだ手すりの大階段、騎士の鎧、ステンドグラス、巨大なタペストリー、シャンデリア。なんだここは。いつの間に外国に来たんだ。

「先生から連絡もらってるので、今晩は安心してここに泊まっていってくださいね」

突然現れた非日常な光景に呆然としているふたりなどお構いなしに、女性は甲高い声で喋っている。というか喋っているだけで何もしないので、牧との髪からはボタボタと溶けた雪の雫が滴り落ち、足元に水たまりを作っている。

すると広い玄関ホールの右の奥から今度は男性の声が聞こえてきた。聞こえてきたけど、こっちもやけに甲高い声だ。

「お客様、大変申し訳ありません! 国竹さん、早くお部屋に!」
「すっ、すみません!」
「あ、あの……その前にどうなってるんですか、これ」
「おふたりはわたくし共が責任を持ってお預かりしますので、まずはお部屋にどうぞ」

いかにもな洋館に度肝を抜かれていたふたりは追い立てられるようにして階段を上がり、くすんだ赤の絨毯敷きの廊下を通って、通路の中ほどにある部屋に通された。部屋の中も深いグリーンの絨毯が敷かれていて、家具調度品などは艷やかに保たれたマホガニー。インテリアは完璧だ。

だが、ふたりはそこで我に返った。同室!?

「先生が同じ部屋でいいと言うので、てっきりカップルなのかと……
「別のお部屋をご用意したいのはやまやまなのですが、生憎満室でして……

ふたりはまたこっそりため息をついた。満室という事情があるのは仕方ない。予約もない急な宿泊客を受け入れてくれただけ親切だ。しかしその「先生がいいと言った」は解せない。監督のことだろうが、未成年の男女を預かる引率者がそれでいいのか。たぶんみんなが「牧となら大丈夫」と太鼓判を押したんだろうけど! でも! 監督!

だがのんびり肩を落としてもいられない。ふたりは雪でびしょ濡れになっており、早く体を温めて着替える必要がある。それに雪でよくわからなくなってしまったが、おそらくもう夜になっているはずだ。昼に立ち食い蕎麦を食べたきりのふたりの腹はタクシーで連れ回されているときからぐうぐう鳴っていた。温かいものが食べたい!

部屋に荷物を置いたふたりはまた追い立てられるようにして廊下に出ると、大階段を挟んで反対側の棟に案内された。どうやら共用のバスルームがあるらしい。

「各部屋にもシャワーはあるんですが、浴槽はここの男女別のお風呂しかないんです」
「ひとまず温まってください。濡れたお召し物は洗って乾かしますね」
「もし服が足りないようなら言ってくださいね、お貸ししますから」
「は、はい、ありがとうございます」

「BATHROOM」というプレートのかかるドアの中は一転、洋館のイメージとはかけ離れた現代日本にありふれたユニットバスとトイレが男女別でひとつずつと洗面台がある共同浴場になっていた。途端に夢から醒めた気がしてくる。アメニティグッズなども洋館らしさの演出はなし、ドラッグストアで買える見慣れたシャンプーやボディソープの原色のパッケージが目に痛い。

異世界と現代日本を行ったり来たりで現実感を失った牧とはしかし、寒さの限界をとっくに超えていたので急いで風呂に飛び込んだ。ぬるめの湯が肌を刺す熱湯のように感じられる。湯の中にいてなお、まだ体が冷たくて寒い。

だが、ひとまず大人が何人もいる頑丈な建物の中にいるのだという実感が湧いてきて、ふたりはようやく強張った肩を下ろすことが出来た。

一晩同室というのは大変気まずいけれど、それも眠るまでの辛抱だ。眠ってしまえば朝は来る。そうしたら今度こそみんなのもとへ行かれるはずだ。もしかしたら試合は中止になってしまうかもしれないけれど、合宿はそのまま行われるはずだ。

そんな時間を過ごしている間に、気まずかったことなど忘れてしまう。

充分温まったら国竹さんに頼んで、何か食べるものを分けてもらおう――

「ごめんなさい、なんせ飛び込みだから、ディナーの用意が終わってから用意しますね」
「そ、それって何時に終わるんですか……
「一応コースだから、20時くらいだと……
「あ、あの、それまで何も……
「ラウンジで出してる軽食でよかったらそんなに時間はかからないと思いますよ」
「すいません昼も軽くて疲れてて腹ペコなんです、お願いできませんか」

国竹さんはふたりに温かい紅茶を持ってきてくれたが、ふたりの腹は鳴りっぱなし。ホテルとしては一応ふたりも宿泊客なのでそれなりの食事を用意するつもりだったようだが、17歳の胃はからっぽで事態は逼迫している。軽食でも量があれば腹は満たされる! ください!

湯に浸かって温まり、乾いた衣服に袖を通して部屋に戻ると、17時半になろうとしていたところだった。予定通りなら17時頃には合宿所に到着できていたはずだし、こんなに疲れることもなかったし、18時になればおかわりし放題の合宿所カレーディナーだったはずだ。

しかし悪天候を嘆いてもどうにもならない。ふたりは軽食の準備をしてくれるという国竹さんに連れられて玄関ホールまで戻った。よく見ると大階段の左右はフロントとささやかなラウンジになっている。ホテルなので当然なのだが内装の非日常さに気を取られて見ていなかった。

「それで、申し訳ないんですけど、私もディナーの準備に行かなきゃならなくて」
「これ、ここで食べてていいんですか」
「お部屋に持って帰ってもいいですよ。お皿は後で取りに行きますね」

国竹さんは急いでサンドウィッチと茹で卵とケーキを用意してくれたが、少ない。しかしふたりは飛び込みの身であり、本日満室だというホテルでディナーを目前にスタッフをひとり欠くことがいかに大変なのかということは想像に難くない。

国竹さんの話によれば、監督との話し合いで例のタクシーの会社がふたりの緊急宿泊については全責任を持つとのことで、ただし予約なしなので正規のコース料理ではなく、別途こしらえた食事になるという。牧は量を多めに、と手を合わせて念を押しておく。

忙しいのだろう、国竹さんはすみませんを連呼しつつ、小走りで長い廊下に消えていった。

「ここも寒くないけど、どうする、戻るか?」
「せっかく来たけど……そうだね」

少し食べたら監督に連絡も入れたいし……とふたりは両手に軽食の皿を持って立ち上がろうとした。すると、がちょうど通りかかった人物と衝突しそうになって、よろめいた。

「うわ、ちょ、ごめんなさい大丈夫?」
「は、はい、平気です、こちらこそすみません」
「あら、もう少しで夕ご飯になるけど……そんなに食べて平気?」

ふたりが顔を上げると、色とりどりの鮮やかな民族衣装のような服装の女性が首を傾げていた。長く伸ばした髪は首のあたりで緩くまとめられていて、そんな装いのせいか年齢のほどは判然としない。薄化粧なのにやけに色っぽいお姉さんである。

ふたりは勢いまたラウンジのソファに腰を下ろし、皿をテーブルに戻しながら説明をした。

「そう、大変だったのね。お嬢ちゃん、足りないものがあったら言うのよ」
「は、はい。えと、といいます、神奈川にある海南大附属高校の、2年生です」
「僕は牧紳一といいます。同じく2年生です」
「やだ礼儀正しいのねえ。私は秋名。秋名メイっていいます」

ちゃんに紳一くんね、とくすくす笑いながら、彼女は「私はメイって呼んでね」とまた首を傾げた。我慢できずにサンドウィッチにかじりついたふたりに、メイさんは一人旅の静養だと言う。化粧は薄いがエキゾチックなアクセサリーが大量で、足を組み替えるだけでもシャラシャラと音がする。

「重厚な洋館だけど、こんな辺鄙な場所にあるでしょ。静養の人が多いのよね」
「ここって、『はくろうかん』でいいんですか」
「そう。元は個人の持ち物だったらしいんだけど、ほら、今日みたいな雪が降るとね」

メイさんはふたりの背後を指差した。爪は何も塗っていないが、指輪だらけだ。

「そこに写真がかかってるでしょう。雪がたくさん降ると屋根にこんもり積もって、庇からちょっと垂れ下がって、まるで溶けた蝋燭みたいに見えない?」

それで白蝋というわけか。牧とはひっきりなしにもぐもぐやりつつ、何度も頷いた。ということはこの雪で白蝋館は白蝋館たるゆえんの姿になるのかもしれない。

すると今度は騒がしい声とともに乱雑な足音が聞こえてきて、ラウンジの前で足を止めた。

「あれ、メイさんひとりじゃなかったんですか」
「私の連れじゃないわよ。この雪で急遽ここに放り込まれちゃったんだって」
「そりゃ大変でしたねえ、学生さんですか」

今度は見たところ3~40代といった感じの男性2人組だ。牧より少し小柄というくらいなので、一般的には長身でしっかりした体つきをしていると言える。このふたりも牧との事情を聞くと、必要なものが不足したら声をかけるんだよと言ってくれた。

「足りないのはひとまず飯ですかね……
「そりゃ、こんなサンドウィッチじゃ足らんよなあ、そんな体で」
「まあでももう少しの辛抱じゃないか。ここ、料理もいいよ」

今度のふたりは冬柴幸司、冬島勇利と名乗った。小中高の同級生で、名前の順に並ばされるといつも隣なのでそれがそのままずっと続いていると笑っている。しかも全部平仮名にするとほぼ同じ名前なので、メイさんには「柴くん」「島くん」と呼ばれていた。

「皆さんは以前からお知り合いなんですか?」
「いや、オレたちは昨日着いたばっかり。でも敬さんとは古いんでしょ、メイさん」
「ここでしか会ったことないわよ。古いことは否定しないけど」

また新たな人名が出てきたので牧とはぽかんとしているが、3人の話から察するに、メイさんの言うように静養などこの宿で過ごすことを目的としてやって来る宿泊客が多いので、勢いバーやラウンジなどで面識が出来てしまい、しかもリピーター率も高いので、同じ季節に訪れると同じ顔があった……なんていうことはよくあるのだという。

「柴さんと島さんも静養でよく来るんですか?」
「んにゃ、オレらは初めて。休みが取れると『ダーツの旅』やってるんだよ」

テレビ番組の企画を真似てダーツで行き先を決め、面白そうな宿や観光地に出かけるという遊びをもう何年もやっているのだとか。確かに白蝋館は面白そうな宿としてはぴったりだ。今どきミステリードラマでもなかなかお目にかかれない洋館はどこを切り取っても「映え」ではある。

静養で来ているメイさんは今日で3日目、ダーツの旅のふたりは2日目だそうだが、どちらも駅からタクシーで来たそうなので、雪の様子によっては滞在が延びたりして……と笑っている。

「あの……食料とか大丈夫なんでしょうか」
「雪の多いところだろうから、それは備えてあると思うよ」
「むしろこんな何もないところに缶詰って方が心配だね」

は退屈よりも食料や水や電気の方が心配だったのだが、大人3人はあまり気にしていないらしい。そもそも湘南地域の出身なので雪の備えについては知識がない。

……ねえ、監督に連絡した方がいいかな」
「監督たちも身動きできないんじゃないか、こんな雪」
「私たち、ちゃんと帰れるのかな」

もし明日も雪が止まなくてホテルから出られなかったら何をするかで盛り上がっているメイさんたちから顔を背けたは、こっそり肩を落とした。いつものように遠征で合宿だったはずなのに、気付いたら初対面の大人たちに囲まれて雪の中を洋館に閉じ込められてしまった。

牧だけじゃなく、周囲には毎日見て慣れ親しんだ顔ばかりのはずだった。監督、高砂、仲間たち。ただそれだけのことが今は何よりも遠くて気が滅入る。みんな親切だが早く合宿に合流したい。非日常なんかもう終わってほしい。

牧はそっとの手を取り、指を優しく撫でた。

「大丈夫だよ。明日の今頃にはここを出てみんなと合流してるって。今日はカレーだろうから明日はたぶん中華丼だろうし、オレたちふたりだけでこんな洋館に泊まったなんて知ったら、この先3ヶ月くらいずーっとイジられると思うぞ」

ふたりは見つめ合ったままフッと鼻で笑った。そんな話をしているだけで日常が辺りを包み込んでくれる気がする。大丈夫、こんな「非常事態」は24時間もかからずに終わる。ご飯食べて寝ちゃえば終了。すぐにまたバスケットのことしか考えられない時間が戻ってくるはずだ。

「あらあ? ふたりともカップルじゃないって言ってなかったあ?」
「別にオレたち叱りつけたりしないよ~」

すっかりふたりの世界に入っていた牧とはメイさんの声に我に返り、苦笑いで手を離した。島さんが恥ずかしがらなくても大丈夫だよと言ってくれたが、そういう問題ではないのだ。

明日からまた「日常」に戻るのだから、非日常に飲まれてしまうわけにはいかない。

自分たちの日常に、恋は存在しないから。