白蝋館の殺人

5

ぐっすり眠った気がしていたけれど、牧もも無意識に緊張していたのか揃って6時半頃には目が覚めてしまい、寒さに震えながら窓の外を見てがっくりと肩を落とした。昨夜よりは勢いが弱まっているものの、まだはらはらと雪が舞っている。雲も厚い。晴れ間が覗く気配はない。

「こっちも似たようなもんだよ。あと試合は中止。予定通り帰れるかどうかも怪しい」
「期末近いからあんまり長居したくないよな……
「そんなこと言い出すのお前くらいなもんだろうな。こっちは悲鳴上げてるよ」

が身支度をしているので、牧は高砂と話していた。

6時起床が原則である合宿の方は既に全員起きていて、昨夜の間にもう1日待機確定の決が出た監督から「各学年ごとに学校から課題が送られてくるから自習」と申し渡され、朝っぱらから呻いているらしい。この雪では体育館への移動も厳しいだろうし、宿で大人しくしているしかない。

「てかそっちは大丈夫なのか、ふたりだけで」
「今のところ特に問題はないよ。当然だけど初対面の大人ばっかりだから、イジられるけど」
「イジられる……まあカップルに見えるだろうからな」
「それを否定するから余計に根掘り葉掘り聞かれるんだよ」
疲れてないか」
「それも今のところ。でもアラームより早く目が覚めたから、緊張してるかもしれん」

ふたりが1年生のときに密かな恋を心に秘めていたことなど高砂は知らない。とはいえ牧とは友情による固い信頼関係で結ばれたコンビであると信頼しているので、心配はしないけれどそれぞれを案じていると言った声色だ。

そこへ身支度を終えた着ぶくれのが戻ってきた。

「課題かあ。期末対策だったらこっちにも送ってくれないかな」
「ほんとにお前らは揃ってそういうのやめろ」
「だってやることないんだもん。ホテルっていうよりペンションみたいな感じだし」
「風呂なんか普通の家庭用のユニットバスがあるだけだしな」
「おいマジか羨ましいな、こっちは天然温泉の大浴場しかないんだぞ」
「高砂、あとで覚えとけよ」

合宿の宿はこれから朝食だそうで、通話はそこで切れた。期末を想定して送ってもらえるなら課題をやりたい牧とだが、昨夜みんなでフロントを覗き込んだときにはファックスがなかった。事務所か何かにあれば貸してもらえるかもしれないが、そのためだけに国竹さんか菊島さんを探しに行くのはなんとなく気が引ける。

……それはそうと腹減ったな」
「朝食は何時から、とか言われなかったよね。好きなときに食べられるのかな」
「菊島さん仕事しろよ」

満室な上に雪で缶詰、その上保護者のいない未成年を預かるという事態に焦っていたのだろうか、よく考えたら菊島さんも国竹さんも今日1日については何も教えてくれなかった。それを聞くためにフロントに電話していいのだろうか。というかスタッフが4人しかいないのに24時間対応なのだろうか。

というわけで、ふたりは寒さにかじかむ手を胸元でこすり合わせながら部屋を出てみた。

廊下には窓がないので、アンティーク調のブラケットライトがぼんやりとあたりを照らしていて、ちょっと不気味だ。他の宿泊客がいるならまだしも、ふたりだけで廊下に佇むと、足元の臙脂の絨毯の金の縁取りに現実感を失ってしまう。ここは本当に21世紀の日本かな。

「誰も起きてないのかな」
「旅行とか静養で来てるんだろうし、昨日はみんな飲んでたからなあ」
「メイさんとか敬さんなんか、昼頃まで寝てそうな感じだよね」

本日満室の客室だが、廊下は耳に痛いほど静まり返っている。臙脂の絨毯が足音を吸収してしまうので、余計に物音がしない。ふたりはそそくさと廊下を抜けて、大階段を急いで降りる。ロビーはやはり無人で、大階段のステンドグラスから雪の白が差し込んでくる他には明かりもない様子だ。

「フロントも無人ていいのか、一応ホテルなのに」
「昨日国竹さんの仮眠室に行ったんだけど、すぐそこなんだよね。雪だし、休んでるのかも」
「ダイニングの方行ってみるか。もし朝食があるなら準備とかしてるかもしれないし」

というか牧はもう既に腹ペコで一刻も早く飯にありつきたかったのである。昨夜は豪華なディナーにありついたけれど、朝は基本白飯に味噌汁というタイプなので、それが可能かどうかも知りたかった。

ダイニングを覗いてみようとしたふたりだったが、当然と言おうか、鍵がかかっていた。よく見ればドアの真ん中に鋼鉄の重厚な、しかし見たこともない大きな鍵が付いていて、厳重にロックされている。それに肩を落としていると、ダイニング前の廊下の奥の方から金属がぶつかる硬い音が響いてきた。

廊下を進むと、何やらベージュの暖簾がかかった入り口があり、両開きのドアが壁にへばりついていた。ふたりは暖簾を手の甲で避けると、そのまま首を突っ込んでみた。

……ここはスタッフ以外立ち入り禁止ですけど」

覗き込んだ途端、ニット帽にマスクをした人物が刺々しい声を上げた。見ればこの部屋はキッチンで、ニット帽にマスクの人はメイさんたちが言っていた「腕はいいけど性格がちょっと」というシェフのようだ。確かに宿泊客でしかありえない牧とが顔を突っ込んでしまったからとはいえ、あまりにぶっきらぼうで、昨夜の美味しいディナーを作った人とは思えなかった。

「すみません、あの、フロントに誰もいなくて、迷って」
……だから、立入禁止」
「えっ、あ、はい……

が問いかけてみてもこの調子なので、牧はすみませんとだけ言ってすぐにキッチンを出た。なるほど、これならメイさんたちが「性格がちょっと」と言うだけのことはある。

「まあ、シェフは別に接客しないのかもしれないけどな」
「お客さんにシェフを呼んでくれって言われたらどうするんだろう」
「そういうのって本当にあるのか?」

ずっとウロウロしているのでの腹もコロコロと鳴り出していた。こうなったら可哀想だが国竹さんを起こすしかないか。スタッフルームは同じような個室が並んでいるだけで、誰がどの部屋を使っているか、が国竹さんの部屋を知っているだけなので彼女が犠牲になるしかない。

というわけでもと来た廊下をロビーまで戻ってくると、初めて見る人物がフロントの前に佇んでいた。そういえば、まだもう一組宿泊客がいたっけ――

「あら、おはよう。昨日のディナーの時にいらっしゃった?」
「い、いいえ、私たちは――
「なあ、誰かスタッフを見てないか。まったく、内線も通じないなんて怠慢にも程がある」

見たところ60代くらいの夫婦のようだが、その夫の方がを遮って牧の前に進み出てきた。全体的に大柄な日焼けをした赤ら顔で、嗄れた声をしていた。牧はの袖を引いて庇うと、誰も見ていないと答えた。厨房に返事をしないシェフならいるが、それを教えたところで、あとで自分たちが文句を言われそうな気がしたからだ。

「君たちは昨日の晩飯の時にはいなかったな? 宿泊客か?」
「雪で目的地に行けず、急遽こちらにお世話になっています」
「雪! まったくこんな雪だなんて聞いてないぞ、冗談じゃない」

夫の方はフロントの奥を覗き込んでいるが、廊下の奥から菊島さんがすっ飛んでくる気配はない。牧とはふたりから離れ、階段の辺りまで下がった。

「なんか怖いね、あのおじさん」
「雪に文句言ったって菊島さんたちがどうにか出来るものでもないのにな」
「でも菊島さん、出てこないとあとでもっと怒られちゃうんじゃないかなあ」
「あの人なんか頼りなさげだからなあ」

しかしこの夫婦のために国竹さんを起こしてくるのは気が進まなかった。国竹さんがこの理不尽なおじさんに怒られるくらいなら、あとで菊島さんがオロオロする方がいい。すると、ロビーにある巨大な置き時計がボーンという大きな音を立てた。見れば7時である。すると静まり返っていた廊下の奥から、例の顔が怖い男性スタッフが不機嫌そうな顔で歩いてきた。

「おっ、君、何やってるんだ、これ、どうしてくれるんだ」
「はあ……?」
「はあ、ってあんたね、オレたちは今日チェックアウトの予定なんだよ」
……この雪では車も動きませんが」
「それじゃ困るんだよ! 君らと違って私は仕事があるんだ。明日は月曜! お勤めなんだよ!」

それにしてもこの夫の方は頓珍漢なことばかりを言う。牧とは嫌悪感が募ってきて、思わず寄り添って向き合い、しかめっ面で首を振った。妻の方も夫のおかしな言い分を咎めるでもなく、困ったわと言うばかり。困っているのはスタッフの方だ。

だが、そこに真打ち菊島さんが登場した。お客様が理不尽なことで喚いているのを見るや、また甲高い声で慌てながらオロオロしている。その後ろから国竹さんが来たので、牧とは走っていって彼女を捕まえた。国竹さんは足を止めず、顔の怖いスタッフのところまでふたりをいざない、ごめんなさいね、と眉を下げた。

「私たち事務所にいて……何かありましたか?」
「す、すいません、私たちはただお腹が減っちゃって……
「朝食は8時からです」
「すみません、それを聞いてなかったのと、僕たちは正規の宿泊客ではないので」
「正規の……いえ、正規のお客様でいらっしゃいますけど」

牧とがポカンとしていると、顔の怖いスタッフは菊島さんに呼ばれてその場を離れた。国竹さんがふたりを引き寄せて声を潜める。

「ほんとにごめんなさいね、松波さん、ちょっと近寄りがたいよね」
「いえそんなことは……
「顔は怖いけど仕事は出来るし、立派な人なんですよ。顔が怖いけどね……
「それであの、てことは8時になったら朝食、もらえるんですね?」
「ああそうそう、それは大丈夫。この雪じゃ外には出られないけど、備蓄はたっぷりあるからね」

とても感じの悪いシェフに、モラハラっぽいおじさん、それを放置の奥さん、案の定怒られっぱなしの菊島さん、立派な人なのに笑顔で接客が出来ない松波さん、そんな大人ばかりを目にしているので、国竹さんの笑顔に癒やされる。というかこれでスタッフ全員だというのに、マトモな人が国竹さんしかいないじゃないか。ふたりは寒さが増したような気がした。

「じゃあ私は朝食の支度があるので、行きますね。思ったより気温が低いから暖房を強くしたので、もう少しするとラウンジも暖かくなると思いますよ。じゃ、ごめんねっ」

あんなめんどくさい夫婦の相手はしたくない、とばかりに首をすくめた国竹さんがそそくさと厨房に向かってしまうと、松波さんも菊島さんを置いて逃亡、足元が冷えるばかりの牧とはダイニングが開くまでずっとウロウロしていた。

「朝から災難だったわね。で、どうしたのそのうるさいオッサンとオバハン」
「え、ええと、お部屋に戻ったんだと思います、けど」
「菊島さん、ああ見えて事なかれ主義だし、厄介な客は部屋に閉じ込めておいた方が楽だよな」

牧とはメイさんと敬さんと同じテーブルで朝食を食べていた。白米に味噌汁はなかったけれど、やはりあのぶっきらぼうなシェフが作ったとは思えないような、暖かくて優しい味わいのフルイングリッシュ・ブレックファストだった。敬さんいわく「いくつか割愛してる料理がある」そうだが、ふたりがそれに気付くわけもなく、テーブルいっぱいたっぷりの朝食に大満足だ。

しかもメイさんと敬さんのふたりは現在白蝋館に滞在している大人の中でも最も安心できる迫力を備えていて、特にはメイさんが現れると安心して涙目になっていた。もう大丈夫。ごはん美味しい。

「あら~、梅さんにもカチ合っちゃったの。ほんと朝から嫌なもの見ちゃったわね」
「いえ、僕たちも勝手に覗いてしまったので」
「梅さんはあれでも昔は東京の一流ホテルでシェフをやってたくらいの人なんだけど、ね」

敬さんの苦笑いが全てを物語っているなとふたりは思った。そして改めてこの個性的なスタッフの中で笑顔を絶やさずいつも明るく元気な国竹さんをすごいなと思った。

「今日の間にはここを出られない、ですよね、やっぱり」
「多少小降りになってきたけど、なんせこれだけ積もっちゃうとな」
「雪の量は減ってきたけど風がまだ強いのよね」
「風、あんまり感じないけど、この建物、すごく頑丈なんですね」
「まあこういう雪は珍しくない土地柄だしね」

ちらりと窓に目をやったは、ついダイニングを見渡した。ロビーで喚いていた夫婦は春林というらしいが、ふたりは菊島さんがなんとか丸め込んでインルームの朝食になったと国竹さんが言っていた。が、昨日の酔っぱらい同窓会もいない。隣のテーブルに柴さんと島さん、窓際のテーブルに志緒さんがいるだけだ。

その隣で牧はオレンジジュースを飲み干すと、身を乗り出して声を潜めた。

「あの、オレたちは監督が話をつけてあると言いますが、例えばこういう場合、宿泊費とかは」
「もちろん菊島さんがヒィヒィ言いながらオーナーに相談してたわよ」
「まあなあ、ああいう客を宥めるには金を使うしかないからな」

もしこのホテルから出られずに、その上きっちり宿泊費を取られるということになったら、あの春林夫婦はもっと暴れるのでは、と牧は心配していたらしい。泣きついてきた菊島さんにオーナーは、個別に相談の上、今日チェックアウト予定だった春林夫婦からは取らなくていいと言ってくれたそうだ。

「みなさんはまだ滞在予定なんですか」
「オレはしばらくいる予定だけど」
「私も」
「あとはどうだろうな、志緒も長い時は1週間くらいいるけど」

現在宿泊している客のうち、リピーターはメイさん、敬さん、志緒さんのみ。あとはたまたまこの宿を選んで週末にかけてやってきただけの観光客だ。春林夫婦の夫の方が喚きたくなる気持ちは分からないでもないが……

「あなたたちは本当に運悪く迷い込んできちゃったようなものだし、退屈よねえ」
「い、いえ、ファックスがあれば先生が課題を送ってくれるというんですが」
「課題!?」
「期末も近いので……
「嘘だろ」

メイさんと敬さんは驚愕におののいていたけれど、その課題が届かなければ、と牧は確かに暇である。普段体を動かしてばかりなので、いきなり一日中部屋で過ごしてくださいと言われてしまうと、どうしたらいいものやら迷う。

そこに菊島さんが通りかかったので、メイさんがベストの裾を掴んで引き止めた。

「ねえ、なんかアイデアないの、あの夫婦や同窓会が暇を持て余して騒いだら困るんだけど」
「あっ、アイデアですか!? こんな悪天候ですし、室内で出来ることには限りがあって」
「でもプレイルームは使えるようになってるんだろ」
「それでご満足頂けるならいいんですけども……

敬さんによれば、この白蝋館の中にはプレイルームと呼ばれる部屋があり、カードゲームのテーブルやビリヤード台、バーカウンターにささやかなステージがあるという。

「ま、ここが個人の持ち物だった時代に、大人が悪い遊びを楽しんでたんだろうね」
「そんなんじゃあ同窓会を余計に騒がせちゃいそうね」
「でもオレたちが避難することは出来るぞ」
「まあそうね……ちゃんたちも来る?」

ビリヤードにルーレットなどと言われてしまうと、まだ未成年の自分たちには関係ないなと思っていたと牧はシャキッと背筋を伸ばした。確かにやることもなくて携帯を見るくらいしか時間が潰せそうにないけど……

だが、菊島さんによるとプレイルームは1年以上も使用しておらず、清掃や備品の状態を確認する必要があるので早くても夜になるという。

「そりゃそうか。じゃあ午後はシアタールームにして、夜にプレイルームでどうだ」
「いいわね。ちゃん、ドレス貸してあげる」
「ドレス!?」
「そうよお、紳一くんは敬にシャツ借りていらっしゃい」
「その胸板……入らんかもしれんぞ」
「入らなかったらガバッと開けておけばいいわよ。お金入れてあげるから」

あはは、と声を上げて笑うふたりにと牧は一緒に笑ってみせたが、目は笑えていなかった。ビリヤードだのドレスだの、なんかどんどん話が日常からかけ離れていって、ちょっと気持ち悪くなってきた。早くいつものバスケットばかりの毎日に戻りたい。

だが、ふたりの願いも虚しく、またはらはらと雪が降り始めていた。